こういうことは、描いてないだけでめちゃくちゃあります。なのでいつもは慣れてるというかそっか~と言って終わるんですが、この時体調が悪かったのと、似た状況がこの日の数日前にも起こっていたため、辛かったです。
アジア中心に展開されるハイコンテクスト(高文脈)では、言葉と他の情報を同時進行させます。「あ、この人は前に〇〇って言ってたからこれのことかな?」と思いながら聞くこと、あると思います。
これをドイツでは一切しません。それを文脈に頼らない言語、つまりローコンテクスト(低文脈)と言います。昔ツイッターでスイスで学習している方が「言われてないことを想像して決めつけることは失礼にあたる」みたいな教育があるというツイートを見たことがあり、つまりは真反対の文化です。
忖度してはいけないのです。言い換えれば言われたことがすべてであり、言われていないことは無であります。状況?昔言った言葉?この人の趣向?何を言いたいのか考える?どうして私にこれを言うのか? 考えません。
びっくりするぐらい考えません。同時進行で話を聞きません。そんな文化ありません。疲れるでしょう。言われるべきことは言われているはずなのだから、言われてないことは無なのだから、無について考えることはできません。そういうことです。
文化に優劣はなく、その人に合うか合わないかがすべてと言うのが持論なのですが、私は2歳ぐらいから大人の顔色ばかりうかがってきましたので、非常に明白なことを言語化することがしんどいことがあります。だってそれって言及せずとも当たり前にわかるでしょう。
彼らは見ないし考えないのでわからないんです。(個人差あります)
それで全部頑張って言語化していると、やれ「それくらいドイツの人にもわかる!」だの「直接〇〇って言われた・・・」だの言うんです。
いや、どのくらいわかるかこっちはわからないんですよ。私からしたら全部自明すぎるので。区別が全くつかないです。これはわかるんだ?と思ってもはっきりとした基準がありません。まず「これはわかるんだ」の件数が少なすぎてサンプルが足りません。結論に行くまでの考慮に入れません。
これどうだろう・・ドイツの女性とまた若干違いがありそうですが、この議案に関して私はこれからもすべてを言っていかなければならないことを、留意しなければなりません。
そして彼には「それくらいわかる」と言わないでもらう、これが私たちの折衷案であり妥協案です。
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